子どもは目覚めている時間、それが食事や排泄その他の生活習慣の時間以外を、ほとんど遊んで過ごしています。特に乳幼児期の子どもたちは、遊びを通していろいろな体験をし、自らの能力を(感覚的にも運動的にも知的にも)発達させ、成長していきます。

そのために保育室内では、発達の特徴を見て、空間作りや必要な遊具を準備していますが、『戸外』については、室内で遊具で遊んだり、大人とコミュニケーションしたりすることとは違った“体験”と“能力”を子どもたちに与えてくれるように見えます。

「庭に行きましょう」という保育者のことばに、子どもたちは、それまで夢中になっていた室内での遊びの手を止め、外へ行く準備に嬉々ととりかかります。どの年齢のクラスでも、どの季節でもそのように見えます。乳児では大人に上衣を着ることや靴をはくことを手伝ってもらっている時、幼児では玄関で皆の準備がお互いにできているか見守っている時からワクワクしています。0歳児クラスでは小さな子のために、大きなテラスがありますが、そこへの出入り口の戸の鍵に大人が手をかけた瞬間に、もう視線をとめて体がテラスの方へ向いている子もいます。玄関が開いた時、テラスの戸があいた時、子は喜びに満ちた表情で外へ向かいます。

何がそれほど子どもたちを、外へかき立てる魅力があるのでしょうか。

(室内だけでは飽きるから)(開放感があるから)(のびのびとできるから)(思いっきり体を動かせるから)(室内とは違った空気・太陽・気温・風・植物・虫などの自然に触れられるから)(健康的に外から栄養を頂く)・・・etc 様々あると思いますが、それは大人にも言えることでしょう。

0歳児クラスの子どもたちが外でしていることを観察してみました。

テラスで太陽のまぶしさや、風を感じる子。テラスに落ちている枯れ葉を手にとり、触ったり、ちょこっとなめたり(^^;)ちぎったり。より小さな子は、時々吹くそよ風に目を瞬きしたり、口をパクパク?したり。ひらひらと落ちる落ち葉を発見、カラスを発見、チョウチョを発見、散歩をしている人や犬、車や放送の音・・・その度にそのことに神経を集中させ、大人を見たり知らせたり。

屋根の上のカラスが見えますか?

歩行の安定した子たちは、靴をはいて地面の上で遊びます。ただただ、歩いて回る子、石や土や植物に触り、何かを感じている子、室内とは違った遊具で自然と組み合わせて何ができるか探索している子、突然見つけた虫に驚き、硬直する子や大人に大声でおしえる子。虫をじっと見つめたり、触ろうとしたり、怖いからかどこからか棒を持ってきてつついたり、足で踏んだり(これには大人の生き物についての理解と生活権への課題があります)前日の雨が残した水滴をあちこちでみつけたり、いけないとわかりつつも、水道の蛇口を偶然ひねられたり・・・異年齢の子たちを柵越しにみたり。飛行機は室内とは比べられない高さの感覚を感じさせるでしょう。1週間くらいの間でも、これくらいのことが観察できました。

 

(ここからは、ドイツの小児科医の著書を参考・引用します)

子どもにとって外に出ることは、室内の“物”とは違ったものを見つけ、生命のある動植物に出会う機会です。命のないものと、命のあるものの組み合わせが自然にはあります。それは子どもにとっては、驚きと喜びです。

そして自然はいつも形と雰囲気を変えて子どもの前に現れます。毎日よく知っている庭や窓から見える風景が、天気・季節によって形を変えたり、生命のあるものは、現れたり、形を変えたり、消えたりします。それらは人間が人工的に環境を変えなければ、形は変わらず、人の精神に安定を与えるようです。

花が咲くこと、実ができること、昼に月が見えること、強烈なオレンジ色の夕日が見えること、雨や嵐が起きること、虹が出ることは、神秘的で、もし子どもに「どうしてこうなったの?」と質問されても大人の答え方には限度があります。完全に説明できずとも良いと思うのです。子どもは答えよりも、大人とその神秘的な体験を共有し、大人も自分と同じように思っていることがうれしいのだと思います。

幼児以降になれば、その神秘性を年齢なりに学習したり体験したりする機会を、大人から与えられることによって、人間の認識の限界を知っていくのだといいます。また、より巧みになる運動発達により、自然に自分の力で安全に向かっていくことも学ぶようになります。固定遊具にのぼる降りる・ぶら下がる・木に登る・家庭でハイキングに行く・川で遊ぶ・・・自分の能力とルール・知識を経験して、自然と人間との間の限度を知っていくと言われています。

田舎の子どもと大都市の子どもでは状況の違いはあります。まずは、大人自身が『自然』をどう感じているかが必要です。子どもは、大人を通して環境や自然を知り、出会う機会を与えられることによって可能性が広がります。そして自然の中での自分自身を知ることを学ぶようです。